「明治からの軍事遺構は語る~横須賀市の第三海堡と貝山地下壕~」講演会開催報告

江戸期以降の土木史跡の地盤工学的
分析・評価に関する研究委員会
委 員 長 正垣 孝晴

1. はじめに
江戸期以降の土木史跡の地盤工学的分析・評価に関する研究委員会は,平成23年5月から活動を開始した。2011年東北地方太平洋沖地震の煽りで,委員の活動の足並みが揃わない状況下のスタートであった。全体統括,港湾,地下空間,地上構造物の4つのワーキンググループWGの活動の中で,港湾と地下空間のWGの研究成果の一部を一般市民に広く紹介することに加え,明治からの土木史跡の建設に携わった方へのアンケートとヒヤリングを目的に,以下のプログラムで講演会と見学会を主催した。共催は,NPO法人アクションおっぱま。後援は,横須賀市教育委員会と公益社団法人土木学会関東支部である。
1) 開催日時:平成24年9月22日(土),13:00~17:00
2) 場所:追浜コミュニティーセンター 北館3階ホール
3) 講演会(13:00~15:00)
・会長挨拶(末岡徹)
・主催者の挨拶(正垣孝晴)
・基調講演「横須賀地区の軍事遺構の概要」(原剛)
・「貝山地下壕の建設と地盤技術 その機能と意味」(大里重人)
・「貝山地下壕の地質構造と学術的価値」(中山健二)
・「第三海堡の建設」(菅野高弘)
・「関東大震災による第三海堡の液状化」(正垣孝晴)
4)見学会(15:30~17:00)
・貝山地下壕(坑口周辺)(大里重人,中山健二)
・第三海堡遺構展示会場(原剛)
以下,その概要をまとめる。

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写真-1 講演会の状況
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図-1 参加者の住居区分     図-2 参加者の年代

2. 講演会
 総参加者数は,232名であり,会場は満場の熱気溢れる状況であった(写真-1)。参加者の住居区分を図-1に示す。横須賀市内からの参加者が67%,横浜15%と,地元が多い。しかし,熊本市,大阪市,沼津市,前橋市,船橋市,国立市,浦安市,相模原市,平塚市の遠方からも18%の参加があった。参加者の年代の割合を図-2に示す。60代以上が全体の58%を占めるが,女子学生が「人口減少時代における斜面市街地とコンパクトシティー論-市街地形成過程からの考察-」という社会科学系の卒論の情報収集としても参加された。
 女性が17%,ご家族での参加が15組あり,地盤工学会の会員は参加者の10%であった。研究委員会の純粋な研究成果を披露する講演会であったが,休日の昼下がりに家族や女性,ご年配の方が興味を示して頂けるテーマが本学会にあることに,主催者として大きな驚きと喜びを持った。国土交通省や横須賀市,沼津市,川崎市から行政や博物館等の専門家の参加も頂けた。
 一般の方に馴染みの少ない地盤工学会と自然災害を含む学会の取り組みの紹介を,末岡徹会長から直接頂けたのは,委員会としても幸運であった。一方,見学会会場への移動のためのバス時間の制約から,各講演に対する質問を受ける時間が講演会の中で確保できなかったのは残念であった。しかし,周到に準備された配付資料とPPTを用いた講演は,参加者に好評を博したことが,以下に示すアンケート調査への回答から明らかになった。タイトな時間配分であったが,半日の中で5つの講演と史跡見学が出来るお得感を狙ったプログラム編成が,多くの参加者を得た一因として功を奏したとも考えている。
2.1アンケート結果と集計
アンケート回収数は,47票であった。主要な質問と参加者の回答を以下に示す。
Q1:本日の講演の各テーマの中から,今後講演会が開催される場合,希望するテーマがあればご記入下さい。
・全国の海軍施設とそれらが建設される理由となった地形の共通性等。
・貝山地下壕と夏島地下壕。
・「横須賀地区の軍事遺跡の概要」の詳細を希望。
Q2:講演の内容や解説の仕方は適切でしたか?
・OK(Good)(3人)。
・液状化の説明が良かった。
・学会成果を公開して頂いたことに感謝しております。理解を進めるのに非常に有意義でした。
・時間が短く,よく理解できなかった。
・聞き難い人がいた。
・内容をもう少し整理できそう。
・有難うございました。良く分かりました(2人)。
・羽田と海堡の比較がとても良かった。
・若干難しい説明があったが,非常に大切な仕事(委員会活動)であることが分かった。
・良かった。少し時間が不足しているように感じた(2人)。
・大いに満足。
・時間的に全ては大変でした。件数を少なく。
・一般の人向けに分かり易く話してほしい。
・適切でした(3人)。
・土木屋で楽しく聞けた。次回を楽しみにしたい。
・テーマやトピックが多いので,1回でなく数回に分けてほしい。
・プレゼン資料とも適切であった。
・横須賀は旧施設を大切に保管されていて素晴らしいです。○○市は,ほとんど取り壊されて残っているのが少ないので,今回参加させて頂きました。有難うございました。
・講演会・見学会は盛会で,大成功のイベントでした。おめでとうございます。
・専門的にも充実した内容だったと思います。第三海堡の御講演は,流石で,よく調査されたなと感心しました。私も長らく第三海堡には関心を抱いておりましたので、興味深く拝聴しました。
・資料が見やすくわかり易い。一次資料の入手が可能なサイトまで掲載されており,脱帽です。知識だけでは無いものまで得られ,とても有意義な講演会でした。素敵な時間を有り難う御座いました。
・親切に解説して下さり,感謝しています。
・研究は継承されていくべきという点,貴重な機会が身近にあるという点で,若年層にもっと参加してほしいという思いを感じました。
・「横須賀地区の軍事遺跡の概要」で海軍の歴史に触れられたことが,特に卒業論文に参考になった。
Q3:今後希望する講演会がありましたら,ご記入下さい。
土木史跡に関しては,図-3に示すようにドライドック(33%),砲台(26%),地下壕・城郭(各17%)と続く。ドライドックに関しては横浜ドック,砲台は観音崎,地下壕に関しては夏島や猿島地下壕との比較を希望されている。また,その他としては,近代化産業遺産や護岸等の土木構造物,掘割等の運河が挙げられている。昨今の大地震や台風等に関係した地盤災害に関する講演会としては,液状化や地すべりを含む防災,地下鉄・シールドに関する開催希望があった。

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 (複数回答) 図-3 今後希望する講演会
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 (複数回答)図-4 講演会開催を知った経緯

Q4:本日の講演会はどのような経緯で知りましたか?
図-4に集計結果をまとめた。タウンニュース(40%),神奈川新聞(14%)が全体の半数以上を占めるが,委員会や関東支部事務局で準備したチラシ,電子メール,学会誌の会告,HPが全体の32%を占めている。その他には,博物館,コミュニティーセンター,地域の回覧板や個人的な情報が挙げられている。委員会を中心とした地道な開催案内の広報活動が,参加者の獲得に繋がったと判断される。
Q5~Q8:旧陸海軍の土木施設の建設に携わった方,横須賀造船所第6号船渠の設計や施工に関係されご存命の方,追浜神社がある貝山壕付近の地下壕の掘削に参加された方,横須賀地区の高射砲陣地築城に関係された方の情報をご存知ですか?ヒヤリングを目的として連絡させていただくことは可能ですか?
これらの全ての質問に対して回答がなかった。昭和20年の終戦当時に関する情報の掘り起こしを期待したが,回答は無くこの種の実態調査は既に限界にあることが推察される。
Q9:講演内容にご質問があれば、ご記入下さい。
・地質学的調査の意義と文化財としての価値の関係が理解できなかった。
・地下軍事工場が各地にあるが,何も残っていない。どうしてか?産業遺産(軍事遺産?)として残す意義があると思う。軍事遺産も近代化遺産の扱いが可能と思う。
・近代化産業遺産(含軍系),建築と構造物に関心がある素人女性です。横須賀は遺構も豊かですが,博物館にも専門家がいて,ローカルの割にレベルが高い。見学会とか時々参加しています。浦賀ドックの公開も好きだ。歴史的建築やレーモンドのオフィースビル等は,耐震基準にひっかかり,世紀を越えず(平成を迎えられず)消滅して残念でした。耐震基準をクリアさせるには,新築より金が掛かる。同じ横浜でも埋め立ての関内と山の手は,地盤の強さが違うと思いますが,基準のランクは有りますか?以前,日吉地下壕を見学して,今回の貝山地下壕のお話と比較して,用途の違いも興味深かったです。田浦とかも地下壕多いですか?鎌倉まで通じていた伝説も聞いたように思います。
3.見学会
共催のNPO法人アクションおっぱまから,13人の方が案内人や誘導員として,絶大なご協力を頂いた。参加者を8班に編成して,第三海堡遺構展示会場(写真-2)と貝山地下壕(坑口周辺)(写真-3)とを,流れる水の如く,実にスムースに導いて頂いた。前者の案内は,委員会から大里重人と中山健二が,そして後者を原剛が担当した。前日までの酷暑と翌日からの豪雨の狭間で,薄日が漏れる曇天も屋外の見学に味方をしてくれた。見学会での質疑応答は,以下のようである。 

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写真-2 見学会の状況(第三海堡遺構展示会場)写真-3 見学会の状況(貝山地下壕)

 3.1 貝山地下壕(坑口周辺)
Q1:この横坑はいつ作られた?何に使用していた?
Q2:この凝灰岩の地層名,堆積時期は?
Q3:泥岩は無かったのか?どこにある?
Q4:誰が掘った?
Q5:油槽タンクは戦争当時のものか?
Q6:どうやって油を艦船や航空機に給油していたか?
Q7:地層の時代はどう決めているのか?
A1:最も古い横坑で大正6年頃と記録がある。
A2:浦郷層か池子層,細部は火山灰分析などによる判定が必要である。不整合はどこにあるか分からない。
A3:現地踏査で確認できていない。
A4:海軍
A5:戦争当時の可能性が高い。
A6:ドラム缶による場合と,配管による場合があった。
A7:貝や微化石,火山灰の対比で決められている。説明の後,説明担当者に拍手を頂いたグループがあった。
(熊本から参加された質問者)
・凝灰岩,付加体等の専門用語は理解する人は少ないと思う。ここに軍事工場が選定され,空洞を掘削することができたのか?この説明が聞きたかった。
・委員会としての次のステップを考えると,展開がさらに難しくなると思う。今回のように遺構と地盤工学を直接結ぶ内容では先行きが細くなるような気がします。なぜ遺構として残さなければならないか。近代化産業遺産として認定する運動が展開できれば,地域の市民運動として定着していく可能性があるように思います。軍事産業も近代産業の一環なので,このように展開すると自治体も動けるようになると思う。
・熊本にも軍事工場を目指した地下空洞があります。現在水源地になっている飛行場を移設することが目的でした。阿蘇4火砕流の空洞で,現在はサツマイモ保存庫代わりに使用されているそうです。
・神戸層群にも地下工場が掘削され,ここでは表面の住宅地が傾いたのでモルタルで充填しました。貝山は誰が掘削したのですか。
3.2 第三海堡遺構展示会場
Q1:第三海堡直下に粘土層がないのが不思議でした。また泥岩が放りこまれているのも不思議。
A1:第三海堡付近の地盤(粘土層が無いこと)については,東京湾の形成(数十万年前から)過程で整理がつくようです。東京湾を二つに区分する目安として,観音崎と富津崎を結んだ線の内側(東京湾内湾)と外側(東京湾外湾)を使うようです。2万年前の氷河期に,現在の東京湾は陸地となっており,多摩川,荒川などの河川が,東京湾内湾部分を浸食して,現在の“中の瀬航路”が形成され,氷河が溶け現在の東京湾になり,当時浸食された部分や湾奥部に軟弱な粘土等が堆積した。一方,東京湾外湾側での浸食痕は“浦賀水道航路”として使われていますが,外洋側に向かって急峻な斜面を形成しており久里浜の南側では深海魚が獲れるほど深くなっています。このため,軟弱な粘土等の堆積環境には無かったものと想定されます。この,内湾と外湾の境界付近に軍事的観点から,海堡の位置が決められたものと考えられますが,基礎地盤の観点から見ても,非常に良い位置に建設されたと考えられます。
Q2:第三海堡に据えられた大砲の種類と数。
A2:最初は前面に27糎加農砲6門と左右両側面に12糎加農砲各4門,合計14門が計画されていたが,埋立て地盤強度の関係で,前面は15糎加農砲4門,両側面は10糎加農砲各4門に変更して合計12門が据えられた。
Q3:震災後,第三海堡はどうなったのか。
A3:震災で数メートル沈下し,3分の1は水面下に沈没した。復旧の見込みなく廃止となり,砲は金谷砲台・新走水砲台・千駄ケ崎砲台に転用された。砲台あとは放置され付近は漁礁となった。
Q4:震災時,兵隊はいたのか。
A4:砲台には普段は,監守として軍曹か曹長が家族とともに監守衛舎に住んで砲台地域を巡視警戒している。演習・訓練あるいは戦備に就く時に部隊が来る。地震の時,監守は砲台内を巡視中であり,大振動で歩くことができず這って衛舎に帰ったが,周囲の建物が壊れだんだん海中に陥没していき危険になったので,備え付けの小船で家族とともに第1海堡に避難した。
Q5:第三海堡の復元図は,図面をもとにして作成したのか。
A5:当時の図面は残っていなかったので,震災直後に海軍航空隊が撮った写真と,今回引揚げた単体の計測結果および計測結果による50分の1の発泡スチロールの模型ならびに簡単な略図などを参考にしてコンピューターで作成した。
Q6:引揚げられたコンクリート構造物の強度。
A6:現在でも耐えうる強度がある。詳しくは国土交通省の東京湾口航路事務所が刊行した『東京湾第三海堡建設史』を見られたい。構造物そのものは頑丈に造られていたので,壊れることはなかったが,接合部が破壊して沈没した。
Q7:第三海堡建設の中心人物といわれる西田明則について。
A7:岩国藩出身の代々建築家の長男。明治維新後山県有朋に呼ばれて陸軍大尉として陸軍に入り,各地の兵営建築に当たっていたが,明治9年頃から東京湾防衛の砲台建設に関わり,特に海堡の建設に熱心で以後第一・第二・第三海堡の建設の主務者として働いた。少佐で停年になったが,技師に転官して75歳まで勤め,さらに嘱託として明治39年5月78歳で没するまで海堡建設に関わった。第三海堡の完成を見ることなく没したが,墓は遺志により海堡の見える聖徳寺の新墓に建てられ,記念碑は衣笠公園に建てられた。
Q8:第三海堡の砲は発砲したことがあるか。
A8:試射とか演習の時に発砲した。
見学会に関するアンケートは採ることが出来なかった。しかし,後日,見学会にも期待以上の収穫があり,そのような機会が設けられたことに謝辞が寄せられた。
4.おわりに
 見学会を終える黄昏の中,60代の女性が目を輝かせ,満顔の笑みを湛え,「とても楽しかった」と謝辞を述べられた。そして,振り向き様に万歩計を確認され「本日は7,852歩いた,次回も期待しています」の言葉を残して見学会会場を後にされた。講演会と見学会に対する参加者の意向を象徴するような爽やかな情景として,今でも脳裏に焼き付いている。
 講演会の実施のための事前準備の段階から,土木学会関東支部,国土交通省,市役所,民間企業,NPO法人,見学地の草刈り協力等,すべての関係者が快く協力を申し出て下さった。エキゾチックな見学と講演内容・企画が,他学会,行政,市民等に対して広く求められている事を裏打ちする出来事であった。参加者の約90%が一般市民であり,委員会成果の公表に対して,参加者からの多くの賛辞も頂いた。報告会と見学会が成功裏に終ったことに委員会メンバーは安堵している。また,今後の委員会活動に大きな弾みとなった。
 最後に,事務局の青木美智子様をはじめ,ご支援ご協力を頂いた多くの関係各位に,厚く御礼申し上げます。