2025年5月13日、神奈川県の横須賀と千葉県の富津岬の間の東京湾口に所在する東京湾第二海堡の見学会を実施した。この海堡は明治以来の土木遺産として正垣孝晴防衛大元教授が長年調査と研究をされているもので、当日も案内役を務めていただいた。また施設の管理にあたっている国土交通省関東地方整備局東京湾口航路事務所様をはじめ、関係者の方々のご支援に厚く感謝いたします。
さて、明治の国家にとっては、西洋列強の圧倒的な軍事力は、常に恐怖の種であった。とりわけ恐れていたのは、軍艦が東京湾や大阪湾に侵入して枢要の地を占拠・破壊される可能性であった。それへの対処として沿岸砲台が構想されたが、明治十年ころの大砲の射程が2ないし3キロと短いため、例えば東京湾口中央を軍艦が進行すると沿岸砲台からは弾が届かない、という問題があった。そこで当時としては破格の埋立人工島の砲台を3か所、湾口に設置することとなった。これらをそれぞれ第一、第二、第三海堡と呼び、明治十四年から建設が始まった。第一海堡は富津岬の先端に位置していたので水深も浅く(最大4.6m)、その建設は比較的容易であった。しかし第二海堡では水深が最大12m、第三では39mあり、割栗石の運搬・投入や土砂の投下、締固め等すべて人力による構築は困難であったと想像される。
水面から上には砲台や観測所(写真1)、宿舎などが設置されたが、軍事施設のことであり、コストより品質重視で良質のコンクリートや煉瓦(写真2)が使われた。正垣氏はコンクリートのコア試験を近年精力的に行われ、築造後一世紀を経ても材料強度がほとんど劣化していないことを示した。
こうして築かれた海堡ではあったが、間もなく大砲の射程が延びて沿岸砲台だけで防衛は十分となり、以後、海堡は単に存在するだけとなった。そして第一と第二海堡の施設は、敗戦後、連合国軍によって爆破・破壊された。しかし写真のように遺構は残っており、土木遺産としての保全が叫ばれている。ただし第一海堡は浸食による崩壊が著しく、中途半端な保全は文化財としての価値を損なうため、よい対策が施されていない。また第三海堡は関東大震災で被災して廃墟化し、以後は船舶航行に危険となっていた。そして平成19年に、ついに撤去された。
参考文献:正垣孝晴 (2023) 日本の近代化遺産, 技報堂出版.
正垣孝晴、黒田一郎 (2023) 地盤工学ジャーナル 18(4): 431-441.
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