3.1 貝山地下壕(坑口周辺)
Q1:この横坑はいつ作られた?何に使用していた?
Q2:この凝灰岩の地層名,堆積時期は?
Q3:泥岩は無かったのか?どこにある?
Q4:誰が掘った?
Q5:油槽タンクは戦争当時のものか?
Q6:どうやって油を艦船や航空機に給油していたか?
Q7:地層の時代はどう決めているのか?
A1:最も古い横坑で大正6年頃と記録がある。
A2:浦郷層か池子層,細部は火山灰分析などによる判定が必要である。不整合はどこにあるか分からない。
A3:現地踏査で確認できていない。
A4:海軍
A5:戦争当時の可能性が高い。
A6:ドラム缶による場合と,配管による場合があった。
A7:貝や微化石,火山灰の対比で決められている。説明の後,説明担当者に拍手を頂いたグループがあった。
(熊本から参加された質問者)
・凝灰岩,付加体等の専門用語は理解する人は少ないと思う。ここに軍事工場が選定され,空洞を掘削することができたのか?この説明が聞きたかった。
・委員会としての次のステップを考えると,展開がさらに難しくなると思う。今回のように遺構と地盤工学を直接結ぶ内容では先行きが細くなるような気がします。なぜ遺構として残さなければならないか。近代化産業遺産として認定する運動が展開できれば,地域の市民運動として定着していく可能性があるように思います。軍事産業も近代産業の一環なので,このように展開すると自治体も動けるようになると思う。
・熊本にも軍事工場を目指した地下空洞があります。現在水源地になっている飛行場を移設することが目的でした。阿蘇4火砕流の空洞で,現在はサツマイモ保存庫代わりに使用されているそうです。
・神戸層群にも地下工場が掘削され,ここでは表面の住宅地が傾いたのでモルタルで充填しました。貝山は誰が掘削したのですか。
3.2 第三海堡遺構展示会場
Q1:第三海堡直下に粘土層がないのが不思議でした。また泥岩が放りこまれているのも不思議。
A1:第三海堡付近の地盤(粘土層が無いこと)については,東京湾の形成(数十万年前から)過程で整理がつくようです。東京湾を二つに区分する目安として,観音崎と富津崎を結んだ線の内側(東京湾内湾)と外側(東京湾外湾)を使うようです。2万年前の氷河期に,現在の東京湾は陸地となっており,多摩川,荒川などの河川が,東京湾内湾部分を浸食して,現在の“中の瀬航路”が形成され,氷河が溶け現在の東京湾になり,当時浸食された部分や湾奥部に軟弱な粘土等が堆積した。一方,東京湾外湾側での浸食痕は“浦賀水道航路”として使われていますが,外洋側に向かって急峻な斜面を形成しており久里浜の南側では深海魚が獲れるほど深くなっています。このため,軟弱な粘土等の堆積環境には無かったものと想定されます。この,内湾と外湾の境界付近に軍事的観点から,海堡の位置が決められたものと考えられますが,基礎地盤の観点から見ても,非常に良い位置に建設されたと考えられます。
Q2:第三海堡に据えられた大砲の種類と数。
A2:最初は前面に27糎加農砲6門と左右両側面に12糎加農砲各4門,合計14門が計画されていたが,埋立て地盤強度の関係で,前面は15糎加農砲4門,両側面は10糎加農砲各4門に変更して合計12門が据えられた。
Q3:震災後,第三海堡はどうなったのか。
A3:震災で数メートル沈下し,3分の1は水面下に沈没した。復旧の見込みなく廃止となり,砲は金谷砲台・新走水砲台・千駄ケ崎砲台に転用された。砲台あとは放置され付近は漁礁となった。
Q4:震災時,兵隊はいたのか。
A4:砲台には普段は,監守として軍曹か曹長が家族とともに監守衛舎に住んで砲台地域を巡視警戒している。演習・訓練あるいは戦備に就く時に部隊が来る。地震の時,監守は砲台内を巡視中であり,大振動で歩くことができず這って衛舎に帰ったが,周囲の建物が壊れだんだん海中に陥没していき危険になったので,備え付けの小船で家族とともに第1海堡に避難した。
Q5:第三海堡の復元図は,図面をもとにして作成したのか。
A5:当時の図面は残っていなかったので,震災直後に海軍航空隊が撮った写真と,今回引揚げた単体の計測結果および計測結果による50分の1の発泡スチロールの模型ならびに簡単な略図などを参考にしてコンピューターで作成した。
Q6:引揚げられたコンクリート構造物の強度。
A6:現在でも耐えうる強度がある。詳しくは国土交通省の東京湾口航路事務所が刊行した『東京湾第三海堡建設史』を見られたい。構造物そのものは頑丈に造られていたので,壊れることはなかったが,接合部が破壊して沈没した。
Q7:第三海堡建設の中心人物といわれる西田明則について。
A7:岩国藩出身の代々建築家の長男。明治維新後山県有朋に呼ばれて陸軍大尉として陸軍に入り,各地の兵営建築に当たっていたが,明治9年頃から東京湾防衛の砲台建設に関わり,特に海堡の建設に熱心で以後第一・第二・第三海堡の建設の主務者として働いた。少佐で停年になったが,技師に転官して75歳まで勤め,さらに嘱託として明治39年5月78歳で没するまで海堡建設に関わった。第三海堡の完成を見ることなく没したが,墓は遺志により海堡の見える聖徳寺の新墓に建てられ,記念碑は衣笠公園に建てられた。
Q8:第三海堡の砲は発砲したことがあるか。
A8:試射とか演習の時に発砲した。
見学会に関するアンケートは採ることが出来なかった。しかし,後日,見学会にも期待以上の収穫があり,そのような機会が設けられたことに謝辞が寄せられた。
4.おわりに
見学会を終える黄昏の中,60代の女性が目を輝かせ,満顔の笑みを湛え,「とても楽しかった」と謝辞を述べられた。そして,振り向き様に万歩計を確認され「本日は7,852歩いた,次回も期待しています」の言葉を残して見学会会場を後にされた。講演会と見学会に対する参加者の意向を象徴するような爽やかな情景として,今でも脳裏に焼き付いている。
講演会の実施のための事前準備の段階から,土木学会関東支部,国土交通省,市役所,民間企業,NPO法人,見学地の草刈り協力等,すべての関係者が快く協力を申し出て下さった。エキゾチックな見学と講演内容・企画が,他学会,行政,市民等に対して広く求められている事を裏打ちする出来事であった。参加者の約90%が一般市民であり,委員会成果の公表に対して,参加者からの多くの賛辞も頂いた。報告会と見学会が成功裏に終ったことに委員会メンバーは安堵している。また,今後の委員会活動に大きな弾みとなった。
最後に,事務局の青木美智子様をはじめ,ご支援ご協力を頂いた多くの関係各位に,厚く御礼申し上げます。 |